法政大学建築学科リレーエッセイ2/3:法政エッセイ:心のバリアフリーもしくは物理的なバリアフリー

【注意】この文章は法政大学建築学科HPリレーエッセイのために書かれた文章の初稿である。今後反応次第で修正・変更することが予想されます。是非ご意見感想よろしくお願いします。皆様の反応により、大幅な改稿もありえます。

 

ikuzuss.hatenablog.com

◼️このエッセイは三部作を予定していました。

「心のバリアフリーもしくは物理的なバリアフリー」今記事

「老人介護施設八景〜もしくは終の住処について(居住者からの提言)」(執筆未定)書く予定は半々。

三部作一作目「ある障がい者の一日」を書き上げた。次の「誰かのバリアフリーは誰かのバリアにしくはユニバーサルデザインについて」を書き始めようとしたとき違和感を感じた。当初の予定では「建築のバリアフリー」、「プロダクトデザインのバリアフリー」、「心のバリアフリー」などと具体的な例を挙げ最終的にユニバーサルデザインにまとめるつもりだった。しかし、これらは全て『心のバリアフリー』と言い換えられるものではないかと。バリアの事例はいくらでも見つかる。それを連ねていくことはこのエッセイを書くテーマにそっていないのではないか。

そこで急遽予定を変え、タイトルも変え。内容も変えて。

このエッセイを書き始めようと思う。

そもそもこのエッセイを書くきっかけを思い出してみる。

それは「障害者として生きるのは大変だけど、可哀想とは思ってほしくない」というものだったはずである。それが目先の事象に気を取られ迷いが出てしまったのかもしれない。

僕も健常者だった時を考えると、果たして障害者を始めとした他人に気を遣っていただろうか。他人を思いやり考えること、それが『心のバリアフリー』と呼べるのかもしれない。

一つ一つの事象は些細なことである。例えば普通のトイレが空いているのに、ユニバーサルトイレを使ったことはありませんか?車椅子利用者や視覚障害者はそこしか使えないと思ったことはありませんか?

設計者の皆さんはユニバーサルトイレの配置等で適当にやってはいませんか?器具の個数の帳尻合わせで設計終了と思っていませんか?

健常者だった頃の僕もそういう傾向で仕事をしていたことは否めません。

しかし、障がい者となった今、些細なことが気にかかる様になりました。

今となっては遅いのですが、後悔後にたたずと言わざるをえません。

大雑把にいうとこれが『心のバリアフリー』と言われるものです。

一方『物理的なバリアフリー』をみてみよう。

例えばユニバーサルトイレの手すりの足元にゴミ箱等を置くことはありませんか?

手すりの足元の障害物

もっと身近なものを例にすると、コンビニなどのキャッシュディスペンサー、健常者なら問題ない操作盤も、視線が低い車椅子利用者には操作盤が高く見難いのです。

合わせて様々な情報を提示するサインも見づらいものが多い。

ショッピングモールサイン

一般的なキャッシュディスペンサー

勘違いしてもらいたくないのは全てを「障害者ファースト」で障害者に合わせて改造しろと言っているのではなく、すべての人が使いやすいものにして欲しいと考えていることで、これが『真のバリアフリー』になるのではないでしょうか?

 

(1029字)